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インディアンの血を引くアフリカ系アメリカ人の父と、アイルランド系アメリカ人の母の子として生まれる。 父は彼女が9歳の時に他界しているが、巨大スーパーマーケットの経営で成功を収め、莫大な財産を残していた為、比較的裕福な家庭であった。兄と弟の3人兄弟。母は、彼女が17歳の時に学者と再婚した。 アメリカの女優セレステ・ホルムやアン・ヘッシュ、ダリル・ハンナなどの出身校であるシカゴのフランシス・W・パーカー・スクールに進み、在学中からファッション・モデルとして活動。同校でロケが行われた1980年の映画『マイ・ボディガード』に端役で出演した(Clifford Peacheの友人役、クレジットは無し)。この出演で映画に興味を持つ]。 1983年、イェール大学在学中に映画『フラッシュダンス』のオーディションに合格し、本格的な映画デビューが主演という幸運に恵まれる。同作は全米だけで興行収入800万ドルの空前の大ヒットとなり、一躍注目される若手女優となる。同作でゴールデングローブ賞主演女優賞(ミュージカル・コメディ部門)にノミネートされる。“トーストブラン色の細い顔”と評される美しい顔立ちもそうだが、「ヴォーグ」や「ジャルダン・デ・モード」などの一流ファッション雑誌のグラビアを飾る学生という事も人気を煽り、1983年7月の初来日会見では800人を超す報道陣が集まるなど、世界的な注目を集めた。 1984年に『フラッシュダンス』に続く大ヒットを期待されて出演した『ブライド』でフランケンシュタインの人造花嫁役を演じるが、大赤字を記録。ゴールデンラズベリー賞のワースト主演女優賞にノミネートされた。同作は製作元のコロンビア映画が『フラッシュダンス』の製作元パラマウント映画から彼女を強引に連れてきて出演させ、巨費を投じて制作されたため、影響は大きく、コロンビア映画の株価は急落した。元よりアイドルスターの彼女に怪奇映画の古典的なキャラクターを演じさせること自体無理があったのだが、マスコミは責任の一端をジェニファーに向けバッシングに走った。「一発屋」「期待外れ」と叩かれ、出演が予定されていたSF大作『スターマン』からも外され、その後4年間、業界から干された。『フラッシュダンス』で得た人気と評判は一夜にして急落し、その後は台詞のない脇役に甘んじるなど約20年、低迷期を過ごす。 2003年秋、テレビドラマ『Lの世界』のオファーを受ける。それまで、映画出演が中心だったため、本格的なテレビドラマシリーズの主演は初となったが、同作で演じたレズビアン役が評判を呼び、再評価され、カムバックを果たす[1]。また、『フラッシュダンス』出演時と変わらぬ、美貌も話題を集める。 マイ・ボディガード (1980年の映画) My Bodyguard (1980) フラッシュダンス Flashdance (1983) ブライド The Bride (1984) 傷だらけの青春 Split Decisions (1988) バンパイア・キッス Vampire's Kiss (1989) 父の恋人 Sons (1989) ブラッド&コンクリート Blood and Concrete (1991) イン・ザ・スープ In the Soup (1992) 親愛なる日記 Caro Diario (1993) ミセス・パーカー/ジャズエイジの華 Mrs. Parker and the Vicious Circle (1994) 青いドレスの女 Devil in a Blue Dress (1995) フォー・ルームス Four Rooms (1995) ゴッド・アーミー/復讐の天使 The Prophecy II (1998) ブレイク・スルー Militia (2000) アニバーサリーの夜に The Anniversary Party (2001) ニューオーリンズ・トライアル Runaway Jury (2003) 呪怨 パンデミック The Grudge 2 (2006) フェアリー・テール・シアター/シンデレラ "Faerie Tale Theatre" Cinderella (1985) ザ・ハンガー プレミアム The Hunger (1999) Lの世界 The L Word (2004-) 海外ドラマガイド 俳優で探す |
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